To The City of Sloe Gin Fizz

翻訳、英語、海外移住、国際結婚などについて。

見世物化される子どもたち―アメリカ横断中学生の騒動に思うこと

ヒッチハイクでアメリカを横断しようとした15歳

「みんなに夢と勇気を与えるために、徒歩とヒッチハイクでアメリカを横断します!」そう宣言して渡米し、警察に連行されたり路上で知らない大人に声をかけて家に押しかけたりしている様子をツイッターにポストしていた日本人の男子中学生がいて、先週から在米邦人アカウントの間で話題になっていた。

togetter.com

どうやらもともと路上やクラウドファンディングで寄付金を募っては日本国内をヒッチハイクで回っていたらしく、今回もうひとつスケールを上げてええ格好をしようと思ったらしい。ちなみに「中学校はやめた」のだそうだ。

「ヒッチハイクはアメリカの多くの州で禁じられているのでは」「というか未成年が一人で路上をほっつき歩いちゃダメ」「下手したら殺されるぞ」という多くの在米邦人の心配を集めつつ、「生きてる、いろいろやばい」というツイートを最後に2日ほど消息が分からなくなる。その間に関連ツイートがトゥギャッターにまとめられて、炎上状態になり、いろんな人が好きなことをコメントするいつもの光景が繰り広げられた。

結局、ツイッターを見て裏で動いた人がいたそうで、少年はラスベガスで保護された後、無事に帰国することになったようだ。

冒険家気取りの子供たちと「応援」してくれる大人たち

同級生や友達が絶対にやらないことを成し遂げてクールになりたい、そんな願望は15歳の男の子なら多分誰にでもあるはずだ。簡単にいろんな人と知り合えるインターネットは、その願望をかなりのスケールでかなえてくれる。特にツイッターなら曖昧に国内外をぶらぶらしている人がいくらでも見つかる。そういう人たちに「自分もあなたのようになりたい!」と言えばいくらでも情報を(個人の経験と主観に基づく再現可能とは言い切れない情報を)教えてくれるし、RTやブログでの紹介という形で「応援」もしてくれるだろう。何千人もフォロワーのいる人に紹介されれば、まるで有名人になったような気分にひたれるはずだ。

お金を出してくれる人だっていくらでもいる。今回の彼は資金集めにクラウドファウンディングプラットフォームのポルカを利用したそうだ。

インターネットなら、何を言っても、文字通りどんなことを言っても共感し応援してくれる人が出てくる。アメリカを横断するぞとぶち上げる。お金も集まった。ツイッターには同年代だけではなく、自分よりはるかに年上の人たちからの「若いのにすごいね!」「頑張ってね!」「応援してます!」のリプライが大量に届く。目立ちたい盛りの少年が、これだけの注目を集めつつ「できない」と思うわけがない。「アメリカは安全大国」などとリプライしている人までいる。銃が普及しているから危ない? 犯罪や誘拐に巻き込まれる? そんなの、マスコミの情報を鵜呑みにした情弱の意見に決まっている。そう思ってしまえば、彼を止められるものなど何ひとつないだろう。

「馬鹿な子供がひどい目に合うのを見たい」という人がいる

だけど。義務教育年齢にもかかわらず家にも学校にもいつかずにあちこちをうろうろと旅している子どもって、冷静に考えると「非暴力的な非行少年」なんじゃないのか。そういう子にインターネット越しにお金や知恵を出したり「応援」する大人は、もし将来彼らの人生の選択肢が尽きたとき、彼らが本当にお金に困ったとき、彼らが職に就きたいと思ったとき、あるいはやっぱり高校や大学に行きたいと思ったとき、何か世話をしてくれるだろうか。いや、世話をしてくれる人もまあ少しはいそうだけど、彼らの「非暴力的非行」を「応援」した人のほとんどは、口を拭って黙っているんじゃないか。

どうしてって、面白くないから。

昔、ホームレスにお金を渡して、その後の行動を観察して楽しんでいた、というブログ記事を見たことがある。細かいところまでは覚えていないけれど、たしかまともにお金の使い方を知らないがゆえに、ホームレスの人は空回りや暴走を繰り返した、そのうち飽きたか鬱陶しくなったかしたから放り出した、そういう内容だったと思う。

インターネットにはそういう人たちがいる。確実にいる。トゥギャッターのコメント欄でも目に付くだろう、「馬鹿な中学生なのだから、ひどい目に合った方が、いっそ死んだ方が面白かったのに」という人たちが。クールになりたい子どもが敢えて危険な行動を取るのを「支援」する大人たちの中に、そういう悪意を秘めている人がいないとは言いきれない。あるいはそこまで露骨じゃなくても、テレビの中の芸能人を応援するのとほとんど変わらない気分で応援・称賛していた人だって、本質は大して変わらない。液晶画面の向こうから自分を「称賛」してくれる大人たちは、こちらの一回きりの人生を、単に愉快な見世物だと思っているだけかもしれない――そんなこと、たぶん子どもたちには想像がつかない。

学校に行っていない子、「普通」と違うことをしている子、しかも世間の耳目を集めたいという子は、そういう意味で脆弱な存在だ。インターネットで大規模に注目を集めるということは、自分の存在を消費されることと表裏一体である。大人にはその意味がわかるが、子供にはなかなか想像しにくいのではないか。

今インターネットで大人と関わっている子どもたち、自分の子どもに野放図にインターネットを使わせている大人たちは、だからたぶん、そういうことに少し気を付けた方がいい。

私が英語を「読める」ようになるまで

ブログをはじめてすぐに書いた機械翻訳に関する翻訳者セミナーの紹介記事が、いきなり「週間はてなブログ」に掲載された。

blog.hatenablog.com

あの記事を読んで読者登録をしてくださった方も多く、ありがたいことだ。ありがとうございます。最初はもっとふわふわした国際恋愛楽しいよー系のブログにしようと思っていたんだけれど、せっかくなので少しずつ英語や翻訳関係の記事を充実させていこうかと思う。

今回は、自分が英語の記事や書籍を辞書なしで読めるようになるまでのステップについて。

英語を読むのが仕事

当然ながら、翻訳の仕事というのは長い英文をスピーディーに読めないとできない。正確に訳すために、仕事の時はとにかく細かく辞書を引くのだけれど、訳出の作業の前にまずは全体の内容を読み下して理解しないといけない。

もちろん、初めから辞書なしで英文が読めたわけではなかった。ここでは、自分がどんな風に英文を理解してきたか、少し振り返ろうと思う。

例として英語版Wikipediaから1文引っ張ってきた。

Though not the first fictional detective, Sherlock Holmes is arguably the best known, with Guinness World Records listing him as the "most portrayed movie character" in history. 

Sherlock Holmes - Wikipedia

「史上初めての創作上の探偵というわけではないにせよ、おそらくはもっとも広く知られているのがシャーロック・ホームズであり、ギネス世界記録には史上『もっとも多く映画に登場したキャラクター』として掲載されている」

こんな感じか。翻訳が仕事だと言いながら自分の翻訳をブログに載せるのって、なかなか怖いもんだ。間違いがあったら知らせてください。

シャーロック・ホームズなのは私の趣味だ。30年の人生の中で20年はシャーロック・ホームズファンだ(シャーロキアンとは恐れ多くてとても名乗れない)。

最初は文を分解しないと読めなかった

高校生から大学の学部生ぐらいまでの頃は、ほとんど文を分解して読んでいたように思う。文の構造を把握するためにひたすら記号を書き込んでいたのだ。

(Though) / (Sherlock Holmes is) [not] the first fictional detective /

[Sherlock Holmes] is(=) + (arguably) + [the best known] (fictional detective) , / with 

[Guinness World Recordslisting → [him]  as(=) [the "most portrayed movie character"] +(in history).

ブログだと再現しきれない上に、たぶん私以外の人にはちんぷんかんぷんだと思うが、基本的にはスラッシュを書き込んで英文を細かく分割した後、省略されている部分を補足し、主部と述部、目的語など、単語同士の関係性を構造的に把握していた。高校で学んだ英文法だけを頼りに、品詞分解のようなことをやっていたのだ。

実際にはわからない単語を調べてからさらに上記の分解をするので、つらい。時間もかかる。学部時代はしばらく地道にこういうことをやっていたのだがいい加減うんざりしてきて、英文学の教授に「どうやったら英語が速く読めるようになるんですか?」と質問して「まあ、慣れだね」と言われて絶望したことがある。一生慣れないような気がしたのだ。

文を適当に区切って読むようになった

とはいえ、そのうち上記のプロセスを大体頭の中で処理できるようになり、卒業論文に取り掛かるころにはスラッシュを書き込むだけで英文を把握できるようになった。

Though / not the first fictional detective,/ Sherlock Holmes / is arguably the best known, / with Guinness World Records / listing him / as the "most portrayed movie character" in history. 

後で知ったのだが、このように英文をいくつかのパーツに分けて、パーツごとに意味を把握して全体を理解するやり方を「スラッシュリーディング」というらしい。

www.rarejob.com

レアジョブのブログにもあるけれど、この時、区切り方にはあまりこだわらない方がいい。直感的に自分が意味をとりやすいまとまりで区切るといいようだ。またこの時、主部と述部に焦点を当てて先に拾うようにすると早く意味を把握できる、ような気がする。

たぶん、英文の分解から入らない方がいい

で、そのうちスラッシュもいらなくなって(長い文をそのまま頭の中で処理できるようになった)、語彙力も大体ついてきて、辞書なしで英文を読める現在に至る。

これから英語のリーディングを鍛えよう、という人は、たぶん私がやったような文の分解はしないほうがいい。私のスピーキングとリスニングのスキルがいまいちなのは、ああいう分解をやっていたころの思考の癖がまだちょっと残っているからじゃないかと思う。おそらく、単語をこまめに引いて語彙力をつけつつスラッシュリーディングに徹する方が早く上達するだろう。その方がつらくないし。

「他人の身体」をめぐる日本の文化、アメリカの文化

身体感覚・パーソナルスペースをめぐるカルチャーギャップ

国際恋愛をテーマにしたブログには、しばしばお互いのカルチャーギャップについての記事がある。そういうのを読むのが結構好きだったりする。

例えば、国際恋愛ブログ「International Love」にはこんなエピソードがある。

 

international-renai.com

 

日本では相手の肩にゴミが付いていたり、髪の毛に何か付いていたりすると、サッと取ってあげて「ありがとう♡」みたいな流れがキュンキュンするところかと思います。

 

そんな概念で彼に同じことを数回したら嫌がられました…。」

こういう、知らないうちに相手のパーソナルスペースを侵食してしまうパターン、特に欧米圏のパートナーと付き合っている人は一度は経験しているんじゃなかろうか。私にも似たようなことがあった。

ファッションにまったく気を使わない私の彼氏は、夏には着古しすぎて地肌が透けるようなてろってろのTシャツを着ている。私が一度「それもう破けそうじゃん、そろそろ新しいの買った方がいいよ!」と言ったところ、「ハルには関係ないだろ、Mind your business!」と言われてしまったのだ。

後でわかったのだけれど、そのてろてろTシャツは本人がとても気に入っているものだった。「自分が持っている服の中で、これが一番cozy(落ち着く、快適)」なんだそうだ。こちらからはただの着古したTシャツに見えても、彼の身体の感覚に深く結びついた、大事なものだ。私はTシャツを否定することで、知らないうちに彼の身体感覚を否定してしまっていたのだ。

アメリカ人の「私の身体は私のもの」という基本認識の深さ

とはいえやっぱり、「Tシャツ買い替えなよ」と言って「放っておいてよ!」というほどの強い反発を食らうことは日本人相手だとちょっと想像しにくい。身体に関わることへの言及の重さは、日本とアメリカだとまったく違うように思う。アメリカでは、他人の身体にコメントすることは、個人の内側に土足で踏み入るような侵襲的な行為である、というコンセンサスがあるんじゃないか。そう思わせるような経験が、彼と付き合っている中でいくつかあった。

たとえば。私は子供のころから体が弱くてしかも太り気味なので、うちの母はいつも私が太りすぎることを恐れていた。私が実家に顔を出すたびに私の体重を尋ねたり、「ちょっと太ったんじゃないの」「ちょっとやせたわね」と一喜一憂していたのである。

学生の間は「母親とはそんなものだ」と思ってさほど気にしていなかったが、さすがにこの歳になってまで体調に干渉されると少し鬱陶しい。私が彼氏にそのことを愚痴ると「『これは私の身体! 私の身体は私のもの! だからそんなこと言わないで!』ってちゃんと怒るべきだ」と言うのだ。

思えば彼氏は私の身なりや、太っているとか痩せているとか、そういうことに対する希望めいたものを一切述べたことがない。男の人が自分の彼女について「こんな服を着てほしい」「メイクは派手にしすぎないでほしい」「痩せすぎていない方がいい」などとコメントをすることはそれほど珍しいことではない。しかし私がそういう希望を訪ねても、彼氏は「太っていても痩せていてもいい、なんの服を着ていてもいい、白髪だって染めても染めなくてもいい、ハルの身体だからねえ」という。

身体や身なりへのコメントがコミュニケーションの一部になっている日本

こういった考え方は私にとっては非常に新鮮だった。考えてみてほしい。初対面の人や目上の人、仕事上のお客さんなどはともかく、自分の親しい相手、あるいは自分から見て目下の相手に対して身体や身なりについてのコメントをするのは「普通のこと」になってはいないか。

自分の恋人に「おなかが出てきたんじゃない」という、幼馴染の悪友に「お前ちょっと生え際あやしいんちゃうか」と言う、自分が面倒を見ている部下に対して「最近化粧に手を抜き気味なんじゃないの、もっと丁寧にしなさい」と指導する…。特に私の母親のように、自分自身の身体と自分の子供の身体を区別できない親は多いのではないか。

ツイッターでは海外在住者や海外経験のある人を集中的にフォローしているんだけれど、そこでも頻繁に「海外の人と話すときに身体の特徴や身なりにコメントしてはだめ!」という話が出てくる。これも、日本でどれほど身体への言及が普通のことになっているかの裏返しじゃないだろうか。

私は、日本ではお互いの身体にコメントすること、もっと言えば身体性を侵食し合うことこそが親しさの証であるとする文化があるんじゃないかと思う。「裸の付き合い」という言葉があるけれど、相手の身体をじろじろと眺めてさまざまにコメントするのが、いわば日本人の概念的な「裸の付き合い」なんじゃないのか。

今後オリンピックなどもあって、海外からの旅行者は増える一方だと思われる。特に欧米圏からの旅行者との間で、この「他人の身体」をめぐる考え方の違いは、今後静かに、しかし大きな問題になっていくのではないかと思う。